遥かなる夢、Japonism

これは、1枚のブランケットを貰うまでのお話です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年9月某日、私は和歌山県の山奥で、ひとり見知らぬローカル線に乗っていました。仕事です。遠い。

宿がなさすぎて夜は大阪に泊まり、早朝電車で和歌山入りをする日々。学生時代から頻繁に一人旅をしていたので、普段なら仕事という名目で知らない場所へ行くのはラッキーハッピーって感じなんですが、この時期の私は肉体的にも精神的にも、仕事でもプライベートでも、とても参っていました。理由は後述しますが、とにかくその日の仕事を終えて大阪の宿に向かうため電車に乗り、途切れがちな電波の合間に確認した受信メールの中にそれはありました。嵐のツアー当落結果です。

「そういや申し込んでたな…」ローテンションになったのは疲れていたからだけではありません。私の名義はFC入会約9年(当時)、一度も当たったことがなかった。…すごくない!?一度もだよ???いくら嵐が当たらないって言ったって9年一回も当たらないってマジ???正気???ブラリ入りしてんのか?と疑ったこともありましたが、よく考えたら一回も当ってないのにブラリ入りも何もない。悪いことのしようがない。ちなみにこれまでたまに入れていたのは、私と真逆のチケ運の持ち主である妹名義のおかげです。サンキューな…

そんなわけで嵐が好きな気持ちは入会当初と変わらないけど(いやちょっと嘘。やっぱり落選した瞬間は若干目減りする)自名義に対する期待値はマイナス100くらいになっていた私を誰が責められましょう。

 

とまあ、ここまで書けばお察しだと思いますが、当たったんです。初めて見る当選メール。数年前のことなので文面はサッパリ覚えていませんが、動悸が激しくなってきゅ、救心…!と思ったのは覚えています。しかし次の瞬間、いま運を使ってしまった…と動揺しました。なぜなら私は当時、人生で一番『運』に左右される日々を過ごしていたから。不妊治療です。

入籍して約2年。本格的な治療を始めて半年頃でした。もともと結婚願望もあまりなかった私は子供を欲しいと思ったこともなく、いなけりゃいないで自由に生きるだけじゃんと考えてい た(これは今もそう思っている)。そして妊娠しにくいかもしれないという予感は結婚前からあったので、彼氏(夫)にも伝え、合意の上で結婚しました。でも結婚後、だんだん私の考えに変化が出てきた。いなくても構わないとは思っているけど、それ本当によく考えた?後悔しないって言いきれる?自分に問いかける日々。治療するなら1日でも早い(若い)ほうがいいことは知っていました。そして夫婦で話し合い、専門の病院に通うことを決めたのです。

不妊治療のしんどさはおそらく人によって千差万別だと思いますが、私の場合、しんどさの理由の半分以上が「終わりが見えないこと」でした。通院のために仕事を調整し、言いたくないことも説明しないといけない(カミングアウトされた上司も困ったと思う…)それがいつまで続くのか、誰にもわからない。1か月で終わる人もいれば、何年もかかる人もいる。でも、辞めようと思えばいつでも治療は辞められる。それで困る人は誰もいない。つらいけど、つらいことを選択したのは自分自身。誰に頼まれたわけでもない。子供とは、結婚とは、仕事とは、人生とは、生きるとは…ということが禅問答のようにループしていて、どんづまりとはこのことかという感じでした。頑張ればどうにかなる世界ではなく、ほとんどが『運』で進んでいく。それまでの人生、ド根性ガエルの精神で乗り切ってきた私は、この出口のなさが本当に堪えていました。なので、それとこれとは全然関係ないと頭ではわかっていたものの、これが当たったから治療が上手くいかないのでは…という、今思い返すとカウンセリング直行案件な思考回路だったわけです。いやー病んでたな…仕事で単身和歌山に行ってる場合じゃないぞ…

しかし問題を先送りにするのが得意なので、当たった事実はなかったことにはできないしな…といったんもろもろを忘れることにして、和歌山での残りの日程を終え、日常へ戻っていきました。

 

そして時は流れ2015年末、ライブ3日前。私は行くか行かないかで迷っていました。妊娠がわかったのです。…って書くと一行ですけど、も~マジ大変!マジでマジで大変だった!具体的なことは省略しますけど、精神的にも肉体的にもマジ限界っす!って感じでその前1か月の記憶がほぼ失われています。覚えてるのはベスア事変くらいかな…リアタイしてたのであの瞬間はすべてを忘れてテレビに釘付けになった(田口くんが結構わりと好きだったので…)

話がそれました。なので今ちょっとかっこつけて迷っていましたとか書きましたけど、正直全然迷ってなかった。考えていたのは「同行者(妹)に何て説明するかな…」ということでした。すべてにナーバスになりすぎていて、ライブに行くという発想はほぼなかった。いや念のため書いときますけど、これ読んで同じような状況(妊娠初期)でライブ行くのをやめる必要なんてないですよ。普通だったら気づかなくてもおかしくないくらいの時期です。もし万一のことがあったとしても、それはライブとはたぶん無関係です。と今の私なら思いますけど、当時の私はまったくそうは思えなかった。万一のことがあったら、私は私を一生許せないだろうと思いました。

そして一晩置いて、妹に正直に言いました。治療していることは軽く話していたので、わかった、とすぐ納得してくれたのがありがたかった。幸い、都内在住の知人の知人(嵐担)が同行してくれることになり、チケット問題は解決。この期に及んで空席は作りたくないという謎の粘り…

ライブ当日は休日出勤だったのですが(オイオイ)途中で気分が悪くなり早退。家に帰って死んだよう寝ました。数か月ぶりに夢も見ず、延々寝ました。眠りに入る直前で、やっぱり行かなくて良かったんだと思いました。私が元気に生きていれば、また東京ドームで嵐を見れる日は来るさと思いながら目を閉じました。

 

数日後、妹から「おみやげ買ってきたから持ってくね」と連絡がきたので会い、ツアーグッズのブランケットを貰いました。何ていい子…(姉バカ)。急遽同行してもらった方からは(いらないと伝えておいたのですが)丁寧に封筒に入れたチケット代も貰ってしまいました。私の知り合うジャニオタの方はみんないい人ばかり…今更ながらこの場を借りてお礼を申し上げます。その節は本当にありがとうございました。行っていただけてすごく気持ちが楽になりました。

そして貰ったブランケットですが、妊娠中は結局全然使いませんでした。ひどい。だって妊娠中って暑くない?真冬だったけど基本汗ばんで過ごし(というかつわりがひどくてそれどころではなく)、安定期に入り気持ちも回復した頃にはすっかり春になっていました。

使わなかったな~と思いながら夏を迎え、産休初日から入院するというハプニングを乗り越え何とか出産。赤子を抱えて退院する頃にはすっかり涼しい秋の空気。和歌山のローカル線で情緒不安定になっていた日から、1年が過ぎていました。

家に戻り、ホエホエ泣く赤子が暑いのか寒いのか育児ド新規の私はよくわからず、寒いよりはいいだろうと、押し入れにしまっていたブランケットを引っ張り出してきました。これがジャストサイズ!肌触り抜群!すべすべのフワフワ!そして何より驚いたのが、これをかけるとぐずっていた赤子がスヤァと眠るのです…って怪しい宗教の勧誘みたいな語り口になりましたけど、本当なんだよ!あまりにも効果があるので、家族の間では「ヤバい成分が入っているのでは…」という疑念まで湧いたくらいです。

それから約2年が過ぎ、ベイビーからキッズに変身しつつある我が子ですが、いまだに寝るときは嵐ブランケットを抱きしめています。たぶん世界で一番使い倒している気がする。特別育てやすいタイプの赤子ではなかったと思うけど、睡眠に関しては超優良児で、睡眠命の私は本当に助かりました。しかしほんと何でなんだろうな…

理由は解明されないままですが、ブランケットに顔を埋めてスヤスヤ眠る我が子を見ると、行かなかったライブのことをたまに考えます。後日発売されたDVDは観ました。すてきなライブだった。和風の衣装でくるくる舞う嵐が夢のように美しかった。全然悲しくないのに涙が滲みました。あの日の決断を後悔したことは一度もありません。あれがあの時の私の唯一の答えだったと思う。でも、あの日私が死んだように眠っている間に、東京ドームではこんなキラキラした時間が流れていたんだと思うと不思議な気持ちになります。行かなかったことで一生忘れられないツアーになったなあと思う。

 

最後に。伝わらないのは承知のうえで、嵐にありがとうと言いたい。治療がつらかったとき、育児で悩むとき、アイドルが直接解決してくれることは特にありません。でも、テレビをつければ君たち5人がいつも変わらぬ笑顔で楽しそうに笑っていて、新しい仕事が決まるたびにワクワクして、ライブDVDを見て盛り上がって、何より嵐の歌を聴いて沈んだ気持ちを紛らわす夜が何度もあった。そんなふうに助けられたような気がします。

いつも夢の先で笑っていてくれてありがとう。またいつか自名義が息を吹き返したら、今度こそ君たちの夢のかけらを見られるといいなと思います。